![]() | ブルース・リー 俳優 | |||||
自己表現をし、自分に誠実であれ。成功した誰かを真似するな。自分であればいい。だがそれが香港の人は分からない。いつも誰かの模倣。自分のルーツから創り出そうとしない。自分らしさとは何か?大事なは人生について考え理解することだ。だが悲しいかな人間というものは表面的なものに踊らされる。日和見的に状況に流されやすい動物だ。 | ||||||
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![]() | ジョン・スチュアート・ミル 哲学者 | |||||
価格が上昇するとの予想を煽る何らかの偶然がきっかけになって、投機家が活躍するようになる。社会の風潮によっては、急激に資産を蓄積した人がいると、真似をしようとする者が多数出てくる。そして、価格の上昇の予想という当初の根拠で正当化できる水準をはるかに超えて投機が進み、さらには、そう予想する根拠のない対象にまで投機が広がっていく。投機が始まれば、どのような対象で同じように価格が上昇する。この種の投機の熱狂の時期には、信用供与(投資資金の信用貸し)がきわめて活発になる。 | ||||||
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![]() | 夏目漱石 小説家 | |||||
近頃自我とか自覚とか唱えて、いくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するようなことを言いながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の目を具し正義の観念を持つ以上は、自分の克服のために自分の個性を発展していくと同時に、その自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです。我々は他が自己の幸福のために、己れの個性を勝手に発揮するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。 | ||||||
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![]() | プラトン 哲学者 | |||||
(演劇等において)感情を高ぶらせる場面のほうは、いくらでも種々さまざまに真似て描くことができるけれども、他方の思慮深く平静な性格はといえば、つねに相似た自己を保つがゆえに、それを真似て描くのは容易ではなく、またそれが描写された場合にも、そうやすやすと理解されるものではない。特に、お祭りのときとか、劇場に集まってくる種々雑多な人たちにとってはね。なぜなら、そういう人たちにとっては、そこに真似て描かれているのは、自分の与り知らぬ精神状態だろうから。 | ||||||
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![]() | トゥキディデス 歴史家 | |||||
希望とは死地の慰め、それも余力を残しながら希望にすがるものならば、損をしても破滅にまで落ちることはない。だが、手の中にあるものを最後の一物まで希望に賭けるものたちは(希望は金を喰うものだ)、夢破れてから希望のなんたるかをを知るが、いったんその本性を悟ったうえでなお用心しようとしても、もはや希望はどこにもない。諸君は微力、あまつさえ機会は一度しかないのだから、そのような愚かな目にあおうとせぬがよい。また人間として取りうる手段にすがれば助かるものを、困窮のはてついに眼に見えるものに希望をつなぎきれず、神託、予言、その他同様の希望によって人を滅ぼすもろもろの眼に見えぬものを頼りにする輩は多いが、諸君はかれらの真似をしないでもらいたい。 | ||||||
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![]() | アンネ・フランク 作家 | |||||
(隠れ家での楽しい思い出について)夜にはみんなしてテーブルを囲み、頭がおかしくなるほど笑い転げました。私がドレヘルさんの奥さんの毛皮のカラーを持ち出して、パパの頭に巻きつけたからです。なんだか馬鹿に神々しくて見えて、ほんと、笑い死にするかと思いました。次にファン・ペルスおじさんもそれを真似をしましたけど、こちらはもっと滑稽でした。 | ||||||
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![]() | 豊臣秀吉 武将 | |||||
茶の湯・鷹狩り・女狂いなどは秀吉の真似など決してしてはならぬ。ただし、茶の湯というものは上品な慰み事であるから、しばしば茶会を開き、人を招待したりすることは、一向かまわない。また鷹狩りは、鳶鷹・鶉鷹など、男児の慰みとして盛んにやってよい。女中は屋敷の中に5人なり10人なり置いても差し支えない。ただ、屋敷の外で見苦しく女狂いをしたり、鷹野や茶の湯なども、秀吉のようにむやみやたらにやって、下賤の輩や人目のはばかる所へやたらに出入りすることのなきように、十分に慎むこと。 | ||||||
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![]() | 洪自誠 作家 | |||||
昔の人は、自分の家の膨大な財産を忘れ去り、門塀に並んで乞食の子供の真似をする、と言う。また、心の貧しい成金よ、ありもしない夢を語るのは止めよ、どこの家の台所からも食事の準備の煙が上がっている、と言う。前者は自分に本来備わっている広大無辺の本心に気が付かないことに対する戒めで、後者は幻でしか過ぎない現世の財産を誇ることを戒めたのだ。これらを、学問(多分に禅を指すだろう)の大切な戒めとしなさい。つまり、目に見える幻ではなく、目に見えない現実を知らないで、学問は出来ませんよ、ということ。言換えれば、活人は、ダイヤの原石を捨てて、金メッキの米粒を大事にするようなバカなことはするなよ、ということ。 | ||||||
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![]() | 聖徳太子 政治家 | |||||
二番目に言う。しっかりと仏教を信仰しなさい。世の中にある三つの宝とは、仏・法理・僧侶のことである。それは生きている者の最後のよりどころであり、すべての国の究極のお手本となるものである。どんな世の中でも、どんな人でも、この仏教の真理を大切なものとしないことがあろうか。人間の中で極悪人は少ない。よく教育をうけたものであれば正しい道を歩むのである。ただ、それには仏教の教えを根本としなければ、どうやってねじ曲がったしまった心を元に戻せるのか。 | ||||||
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