![]() | プラトン 哲学者 | |||||
一般に何か四つのものがあって、我々はそのうちのどれか一つを、何らかのもののなかに探し求めているとする。その場合、探し求める当のものを最初に知ることができたなら、我々としてはそれで充分なわけだし、またもし他の三つのほうを先に知ったとすれば、まさにそのことによって、求めていたものは知られたことになるだろう。なぜなら明らかに、いまや、そこに残ったものこそがそれに他ならないのだから。 | ||||||
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![]() | ニッコロ・マキャヴェッリ 思想家 | |||||
新しい制度の導入は一般的に困難である。それは、旧制度の受益者は全て敵に回り、新制度の受益者は本当に受益できるか不安を持つからである(要約)。人間は生来変わり易く、彼らに何かを説得するのは容易であるが、この説得に彼らを?ぎとめておくのは難しく、したがって、もはやそれを信じない場合には力によってそれを信じさせることができるような態勢が必要となる。 | ||||||
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![]() | 福沢諭吉 教育者 | |||||
世界の人民は礼を空気として、徳の海に浴している。これが「文明の太平」である。今から数千年後には、このような状態になるだろうか。私には分からない。愚かな一般人民に道徳を啓蒙するために、キリスト教を用いようという人がいる。個人の徳を涵養するには良いが、宗教を政治に拡大し、それを一国独立の基礎に据えることは無理だ。人類の博愛を説くキリスト教は広大すぎ、善いものすぎ、美しすぎ、高遠すぎ、公平すぎる。一方の国際政治は、狭隘すぎ、卑劣すぎ、浅すぎ、偏り過ぎている。 | ||||||
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![]() | ジョン・スチュアート・ミル 哲学者 | |||||
人類の良識にとって不幸なことに、人類は間違いを犯すものであるという事実が、理論上ではかならず重視されても、じっさいの場面においてはほとんど軽視される。誰でも自分は間違えることがあると知っているのに、そのことをつねに心にとめておかねばと考える人はほとんどいない。自分も間違えることがあるとわかっていても、自分にとってかなり確実と思える意見がその一例かもしれぬと疑う人はごく少ない。 | ||||||
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![]() | 聖徳太子 政治家 | |||||
一番目に言う。仲良くすることをなによりも重要なものと考え、争いをおこさぬことを一番としなさい。一般的に、人はグループを作りたがり、よく物事を知っている人格者は少ない。それだから、立場が上の人や父親のいうことを聞かなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし、上の者も下の者も仲良くする気持ちをもって話し合うことができるなら、自然とものごとの道理にかない、どんなこともうまくいくのである。 | ||||||
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![]() | 聖徳太子 政治家 | |||||
四番目に言う。政府の高官や一般の官僚たちは、礼の精神を基本に持つべきである。人々をおさめる基本は、かならず礼にある。上が礼法を守っていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法に守っていないければ、かならず罪を犯す者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法が保たれているときは社会の秩序も乱れず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ。 | ||||||
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![]() | マイケル・サンデル 哲学者 | |||||
「正義」とは一体何なのか。それを規定するものがいったいどこにあるのか。「正義をめぐる古代の理論は美徳から出発し、近現代の理論は自由から出発すると言えるかもしれない」。そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。大切なことは、その考え方にいろいろな視点があるということをしっかりと理解して臨むことであり、どの視点を自分が選択するのか、そこからどういった結論を導くのかすらも、各自の責任の範疇だという意識を持つことなのかもしれない。 | ||||||
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![]() | ヴァージニア・ウルフ 小説家 | |||||
文明の進歩は、いわゆる偉人たちがもたらすものなのか? ごく平均的な人間の運命は、古代エジプト王の時代に比べて少しでも良くなっているのだろうか? いや、そもそも、と彼は続けて問う、一般人の生活が文明の進歩を計る尺度になりえているのか? たぶんなってはいまい。どうやら最大福利とやらは奴隷階級の存在を必要とする。 | ||||||
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![]() | ヨハン・ホイジンガ | |||||
古代からわれわれの時代にいたるまでの大侵略戦争はすべて、経済的な力関係、政治的配慮といった合理的理論から解釈するよりも、誰でもただちに理解することのできる、名声への欲望という観念を考えることによって、いっそう本質的な説明を与えることができよう。このような戦争の栄光化の現代的爆発は、悲しいかな、われわれにはもはや余りにも周知の事実となってしまった。 | ||||||
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![]() | ニッコロ・マキャヴェッリ 思想家 | |||||
恐れられるのと愛されるのと、さてどちらがよいか、である。だれしもが、両方をかねそなえているのが望ましいと答えよう。だが、二つをあわせもつのは、いたってむずかしい。そこで、どちらか一方つを捨ててやっていくとすれば、愛されるより恐れられるほうが、はるかに安全である。というのは、一般に人間についてこういえるからである。そもそも人間は、恩知らずで、むら気で、猫かぶりの偽善者で、身の危険をふりはらおうとし、欲得には目がないものだと。 | ||||||
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