![]() | カール・マルクス 哲学者 | |||||
一つの全社会を革命する思想というものがあるという。それはただ、旧社会の内部に新社会の諸要素が形成されたという事実を、古い思想の解体は古い生活諸関係の解体と同一歩調をとるという事実をいっているにすぎない。 | ||||||
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![]() | 中島義道 哲学者 | |||||
古代エジプトの諸王朝も、ローマ帝国もフランス革命も明治維新も、そして私の乏しい個人史もすべて「観念」にすぎないのだ。つまりまったく実在しないのに(なぜなら過去は「ない」のだから)あたかも「ある」かのように意味付与した仮象なのである。 | ||||||
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![]() | ミシェル・フーコー 哲学者 | |||||
B・H・レヴィ:もし、革命がもはや望ましいものでないとするなら、政治は貴方が仰るようなものであり続けるのでしょうか。フーコー:いいえ、そうは思いません。別の政治を発明するか、もしくは政治に代わる何か別のものを発明しなければならないでしょう。 | ||||||
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![]() | ミシェル・フーコー 哲学者 | |||||
革命の回帰、そこにこそ我々の問題があります。そうした回帰がないとすれば、スターリニズムの問題は、もはや学校的問題、即ち、社会の組織化もしくはマルクス的図式の有効性に関する問題にすぎないということになってしまうでしょう。 | ||||||
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![]() | ミシェル・フーコー 哲学者 | |||||
次のように言うことができます。政治家とは異なるやり方で政治に携わるということ、それは、出来る限りの、誠実さをもって、革命が望ましいものであるかどうかを知ろうと試みることであり、政治を倒壊させる可能性の潜んでいる巣窟を探索することである、と。 | ||||||
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![]() | ミシェル・フーコー 哲学者 | |||||
十八世紀及び大革命時代に志向されていたローマとは、元老院の、しかもローマ軍団のローマであり、また公共広場(碁盤目状に整備された都市)の、更にまた陣営本位のローマである。 | ||||||
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![]() | ミシェル・フーコー 哲学者 | |||||
我々は恐らく、政治の終焉を生きています。というのも、政治が、革命の存在によって開かれた場であるとするなら、そして、革命の問いがもはや望ましいものとして提出されないとしたら、そうだとしたら、政治は消滅してしまうかもしれないからです。 | ||||||
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![]() | ミシェル・フーコー 哲学者 | |||||
革命が果たして望ましいものであるかどうかという、まさにそのことこそが、今日の問題となっているのです。 | ||||||
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![]() | 金日成 政治家 | |||||
良心を持つ人間であってこそ革命家になり、良心に錆がつくと信念にも錆がつき、良心にひびが入ると信念にもひびが入り、闘志が麻痺する。 | ||||||
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![]() | 金日成 政治家 | |||||
人民大衆こそは革命の偉大な教師である。 | ||||||
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