![]() | ジョン・ロック 哲学者 | |||||
社会にとって必要不可欠なもの、すなわち、人民の安全を保ち人民を守るための基盤が、何らかの武力によってそこなわれたとしよう。その場合、人民はそのような武力を、みずからの武力をもって排除する権利がある。いかなる事態、いかなる状況のもとでも、権限なき武力に対する適正な対処法は、武力によって対抗することにある。権限もないのに武力行使をしかけてきた者は、侵略者として戦争状態に追い込まれ、それ相応の扱いを受けなければならない。 | ||||||
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![]() | 太宰治 小説家 | |||||
一人の外国文学者が、私の「父」という短篇を評して、(まことに面白く読めたが、翌(あく)る朝になったら何も残らぬ)と言ったという。このひとの求めているものは、宿酔(ふつかよい)である。そのときに面白く読めたという、それが即ち幸福感である。宿酔がなければ満足しないという状態は、それこそほんものの「不健康」である。 | ||||||
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![]() | 福沢諭吉 教育者 | |||||
世界の人民は礼を空気として、徳の海に浴している。これが「文明の太平」である。今から数千年後には、このような状態になるだろうか。私には分からない。愚かな一般人民に道徳を啓蒙するために、キリスト教を用いようという人がいる。個人の徳を涵養するには良いが、宗教を政治に拡大し、それを一国独立の基礎に据えることは無理だ。人類の博愛を説くキリスト教は広大すぎ、善いものすぎ、美しすぎ、高遠すぎ、公平すぎる。一方の国際政治は、狭隘すぎ、卑劣すぎ、浅すぎ、偏り過ぎている。 | ||||||
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![]() | ジャレド・ダイアモンド 生物学者 | |||||
現代という時代は、人類史上かつてないほどに、人が長生きするようになり、高齢者の健康状態が向上し、高齢者を養うだけのゆとりを社会が持てるようになった時代である。しかし、その反面、現代という時代は、高齢者が社会に提供可能だった伝統的価値の大半が失われ、健康なのに哀れな老後を過ごす高齢者が多くなってしまった時代である。 | ||||||
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![]() | 神谷美恵子 医師 | |||||
愛の対象にせよ、物質にせよ、地位や名誉にせよ、すべて所有というもののなんとはかなく、もろく、むなしいものであるかを彼は身にしみて知った。それらを自分が所有していると信じていたとき、彼はそのなかに自分の存在の重みを感じ、それを生きるよりどころとしていた。しかしひとたび限界状況におちいってみれば、すべて外部からとってつけられた所有物は、奪いさられ、彼はまったく裸のままにとりのこされたのであった。彼がはぶりのいい時には周囲にむらがったひとびとも、彼がおち目になったとき、または他人とはちがった状態になったとき、ただそのことだけで彼を価値なきものと判断し、非難し、彼から遠ざかって行った。 | ||||||
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![]() | イマヌエル・カント 哲学者 | |||||
民族は自然状態においては、すなわち外的な法にしたがっていない状態では、たがいに隣あって存在するだけでも、ほかの民族に害を加えるのである。だからどの民族も、みずからの安全のために、個人が国家において市民的な体制を構築したのと同じような体制を構築し、そこでみずからの権利が守られるようにすることを、ほかの民族に要求することができるし、要求すべきなのである。 | ||||||
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![]() | 荘子 哲学者 | |||||
いちばん先に正しいことを行なうがよい。正しいことを行なっていれば、いかなるばあいでも、自分の心は安静を保ちうる。その安静のできてきたとき、はじめて外の社会の真の姿を見抜く力、すなわち明がでてくる。真の姿を見抜く力がでてくれば、そのときはじめて自分の心が虚、すなわち他にわずらわされない虚心坦懐の状態になりうる。この虚の状態になりえたばあいには、どんなことをも自分の私心を用いてさかしらの事はしないが、その代わりどんなことでもなしえないことはなくなる。 | ||||||
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![]() | ヨハン・ペーター・エッカーマン 作家 | |||||
われわれの状態は、あまりにも人工的で複雑すぎるよ。われわれの食物や生活方法は、本当の意味で自然さがないし、われわれの人間付き合いには、まことの愛情も善意もない始末だ。猫も杓子も垢抜けして、丁重だが、誰一人として、勇気をもって、温かみと誠実さを表わそうともしない。だから、素朴な性分や心情を持った正直な人は、じつにまずい立場に置かれている。たった一度でいいから、嘘いつわりのない人間らしい生活を純粋に味わうために、南洋の島あたりのいわゆる野蛮人にでも生れてみたい気がすることがよくあるね。 | ||||||
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![]() | ルキウス・アンナエウス・セネカ 政治家 | |||||
あんまりきちんとしすぎていて、定期的に特別の絶食をするという人がいるけれど、あれは良くない。なぜかと言えば、定期的であるからには体の今の状態がどうかということは無視するわけで、だから我々の体の自然がそれを要求してもいないのに食べるものに制限を課し、体が自分の望むような生活習慣をつけようと求めているまさにその時に、食事を取り上げる必要なんかない。 | ||||||
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![]() | 國分功一郎 哲学者 | |||||
贅沢とは浪費することであり、浪費するとは必要の限界を超えて物を受け取ることであり、浪費こそは豊かさの条件であった。現代社会ではその浪費が妨げられている。人々は浪費家ではなくて、消費者になることを強いられている。物を受け取るのではなくて、終わることのない観念消費のゲームを続けている。浪費は物を過剰に受け取ることだが、物の受け取りには限界があるから、それはどこかでストップする。そこに現れる状態が満足である。 | ||||||
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