![]() | ミヒャエル・エンデ 作家 | |||||
『はてしない物語』で展開されたのは、もはやモラルに関することだけではなく、実存する悪でした。<幼ごころの君>の国では、善と悪とが、全く同じ価値を認められていました。善と悪の二つとも、必要なのです。 | ||||||
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![]() | イマヌエル・カント 哲学者 | |||||
モラルある政治家は、国にとってなにが最善かをモラルを踏まえて考える。モラルを説く政治家は、自分の政治のためにモラルを利用しようとする。 | ||||||
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![]() | 村上龍 小説家 | |||||
過去の政治形態は歴史です、歴史にモラルはないでしょう、いい歴史とか悪い歴史とかはない。 | ||||||
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![]() | 岸見一郎 哲学者 | |||||
共同体といっても、家庭や学校といった狭い常識だけに従うのでは、人間関係に行き詰った際に逃げ場がなくなる。その時は、より大きな国家・地球の常識に従ってみるべきだ。また、共同体の中の人間関係は、「褒める、褒められる」といった縦の関係ではなく、対等である横の関係で構成されるべきだ。 | ||||||
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![]() | 福沢諭吉 教育者 | |||||
偏狂とは、行いが一方に片寄って、常識からはみ出てしまう病気である。猜疑心の強い人、迷信を信じる人、見栄っ張り、盗み癖、潔癖症、酒びたりの他、守銭奴や政治に熱を上げる人、他の宗教を謗る宗教家など、枚挙にいとまがない。時には特定の考え方から自らを解放する修行も必要だろう。 | ||||||
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![]() | 福沢諭吉 教育者 | |||||
世界の人民は礼を空気として、徳の海に浴している。これが「文明の太平」である。今から数千年後には、このような状態になるだろうか。私には分からない。愚かな一般人民に道徳を啓蒙するために、キリスト教を用いようという人がいる。個人の徳を涵養するには良いが、宗教を政治に拡大し、それを一国独立の基礎に据えることは無理だ。人類の博愛を説くキリスト教は広大すぎ、善いものすぎ、美しすぎ、高遠すぎ、公平すぎる。一方の国際政治は、狭隘すぎ、卑劣すぎ、浅すぎ、偏り過ぎている。 | ||||||
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![]() | 福沢諭吉 教育者 | |||||
まず、日本には独立した市民がいない。日本の戦争は武士階級同士の争いであって、一般人民から見ると単に支配する層が変わるだけである。 | ||||||
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![]() | 福沢諭吉 教育者 | |||||
日本でも中国でも西洋でも、慈悲深い君主が出て国をよく治めたというのは昔話である。これは君主一族の徳が衰えたわけではない。人民一般の智恵が増加したため、君主の仁徳を輝かす余地がなくなったのである。仁君は野蛮な非文明人に対してでなければ、貴いものではない。 | ||||||
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![]() | ジャン・ジャック・ルソー 哲学者 | |||||
そのためには、市民は自分たちが持つ財産や身体などを含む権利の全てを共同体に譲渡し、共同体が単一な人格と一般意思を持つようにしなければならない。 | ||||||
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![]() | ニッコロ・マキャヴェッリ 思想家 | |||||
(君主は)愛されるよりも恐れられる方がはるかに安全である。それというのも、人間に関しては一般的に次のように言いうるからである。人間は恩知らずで気が変わり易く、偽善的で自らを偽り、臆病で貪欲である。君主が彼らに対して恩恵を施している限り彼らは君主のものであり、生命、財産、血、子供を君主に対して提供する。しかしこれはすでに述べたようにその必要が差し迫っていない場合のことであり、その必要が切迫すると彼らは裏切る。したがって彼らの言葉に全幅の信頼をおいている君主は他の準備を整えていないために滅亡する。(中略)人間は自らの意に従って愛し、君主の意に従って恐れる。したがって、賢明な君主は自らの自由になるものに依拠すべきであって、他人の判断に依存してはならない。そしてその際すでに述べたように憎悪を招かないようにだけ配慮すればよい。 | ||||||
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